ED.PINAUD の歴史

1830 年パリ

「 香水とは失われた花々の楽園であり、花々はその中に永遠にとどまる。瓶の蓋を開けると心地よい気分で記憶の中をさまよい始める。(・・・)目を閉じればこれまで出会った友の笑顔や若い女性の愛らしい顔が記憶の中から呼び起こされる。そうなのだ。香水とは、我々の過去の人生を見ている最も繊細な傍観者なのだ。」(ピノー回想録、1860年)

エドワード・ピノーは、フランス北部に位置するアブヴィルという繁栄した都市で、1810年に誕生しました。ピノーは職人一家に育ち、家族は商売も営んでいました。かすかな残り香を漂わせる人々に惹きつけられたピノーは、たちまち香水のとりことなり、幼少のころから香水の仕事をしたいと心に決めていました。13歳の時、香水のあらゆる技術を習得するため、家族と離れて弟子入りしました。彼の中で生まれた情熱は、やがて彼の運命を変えることになりました。

1830

パリに着いたエドワード・ピノーは、サンマルタン通り230番地にある香水店“A la Corbeille Fleurie (花かご)”のオーナーとなりました。20歳という若さで、彼は香水の作り方を習得していたのでした。

知識が経験となり、彼の驚くべき天才的な創造力が、彼の最大の財産でした。並外れた努力家で疲れを知らず、「彼が蒸留した花は、彼にとっては詩情と鋭い感性にあふれた香水を生み出すためにお互いをつなぐ愛の言葉だった」のでした。”

その頃、ピノーは初めての傑作“a Violet of Parma Bouquet(スミレのパルマブーケ)”を製作しました。非常に軽くとても良い出来だったことから、老練の職人達は、彼の優れた技術に驚嘆しました。

まもなく、パリで最高の職人達がピノーの店「花かご」に加わりました。それ以来、目がくらむほどさまざまな種類のオーデコロン、さまざまな香りのする魅惑的な化粧水や花束が誕生しました。

1840

1841年、エドワード・ピノーは「優れた香水職人」として、パリ市の商事裁判所台帳に正式に記載されました。するとまもなく、彼はブリュッセルに倉庫を所有し、フランスと海外で製造から販売までを一貫した事業を始めました。これがイギリスへの販売の資金源となりました。

革命中にマリー・アントワネット女王から「王と王宮の御用香水商」に任命され、その後ナポレオンI世の御用商人となった著名な先人であるジャン=ルイ・ファージョンのことを記憶していたピノーは、当時人気のあった調合の複製や改良で妥協することは一切ありませんでした。

1850

世界中から注文を受けるようになったため、ピノーは1850年に友人エミール・メイエルと共同で、最初の化粧品製造工場をパリ郊外のラ・ヴィレットに設立し、2つの新たな倉庫をロンドンとリヨンに設立しました。2人は小売販売も始めることを決め、パリに4つの新店舗をオープンし、たちまち大盛況となりました。

1856年の雑誌は、ピノーの事業方針について、「卓越した素晴らしい製品のおかげで、(ピノー)ブランドは他に類を見ない格別なものとなっている」と称賛しています。

1855年8月18日、ビクトリア女王が国際博覧会でパリを訪れました。女王陛下の関心を引きたかったエドワード・ピノーは、女王訪問の記念として女王の名前をつけた“Bouquet de la Reine Victoria ”という香水を発表することを思いつきました。女王は、すぐにこの若いクリエーターの才能と熱意のとりことなりました。エドワード・ピノーは、フランス皇帝ナポレオンIII世と皇后ウジェニーの御用商人に任命され、ついに英国ビクトリア女王の御用商人となりました。彼の香水は、1855年パリ、1862年ロンドン、1867年パリで計3つの金賞と銀賞を受賞しました。

1860

あらゆる国際的な賞や称賛を受けた後、エドワード・ピノーは回想録「愛してやまない香水のために自らの知識と経験を伝えるには」の執筆を始めました

「崇高な素晴らしさに到達するために、人生において必要なものはひとつだけだった(・・・)このことだけを心において、絶対的な完璧さというひとつの方向だけを追い求めた」。

しかし、仕事にすべてを注いだ多忙な人生が、最終的にこの偉大な香水職人を極度の疲労に追い込みました。

1868年10月2日、彼は親戚と最も信頼していた長年の友エミール・メイエルに囲まれ亡くなりました。


1870

ピノーの香水事業を引き継いだのは、極めて明晰な彼の真の友であり協力者でもあったエミール・メイエルでした。メイエルはピノー社を延命させるため、心からの支援を集めるにはどうしたらよいかを理解していました。

「1人ではただの人だが、協力すればあらゆる困難を乗り越えて世界を征服することができる」。最高の職人を獲得するため、メイエルは当時では革新的な手法を採用しました。食堂、託児所、老齢退職年金、あらゆるものを利用しました。この方針が功を奏し、1875年にチリのヴィエンナで、1878年にパリで開催された万国博覧会で、それぞれ最高の賞を受賞しました。

その頃、メイエルはパンタンに新店舗をオープンするため、ラ・ヴィレットの古い工場を手放しました。注文が殺到し、生産ラインを増強しました。ピノー社は海外に進出して拡大を続け、5年も経たないうちに売上高は3倍になりました。

1880

これまでの建物が手狭となったピノー社は、本社をストラスブール大通り37番地に移転し、そこでパリで最高の香水職人達が加わりました。1883年、メイエルは若さあふれる義弟ビクトール・クロッツと組むことにしました。

19世紀末の1889年に開催されたパリ万国博覧会で、ピノー社は多くの賞を受賞しましたが、特に賞賛されたのは、イクソラという植物をベースにした調合で、ビクトール・クロッツがマネジメントを行っていたものでした。

疲れ知らずの旅行者のように、クロッツは常に動いていました。製品を紹介してくれる最良の販売会社を探して世界中いたるところに出向きました。多くの取引先や信頼できる人々の助けを得ながら、自社製品で圧倒的な地位を獲得したい国々の最有力者達へ、香水や高価なビューティケアセットを贈りました。

1890

1891年、ピノーの歴史的な成功のひとつであり、ベル・エポックの贅沢さと洗練さを象徴したFLIRT(戯れの恋)を発表しました. この香水は、ネーミングの大胆さもさることながら、時代に対しても挑戦的なものでした。結果的にこの香水はセンセーションを起こし、フランス人の日常的な言葉として広まり、たちまち他の香水商達から模倣されるようになりました。

1897年、ピノー社は、本物の香水の殿堂としてヴァンドーム18番地に店舗をオープンしました。その頃には、ピノーはフランスの洗練されたジュエリーとラグジュアリーの中心となっていました。

1900

1900年、伝統のあるピノー社は、パリの万国博覧会用に有名な博覧会のブーケを製作しました。他社との差別化を図るため、クロッツは香水博物館の設立を決意し、その存在を知らしめました。

競争を超えた存在であったピノー社は、ロジェガレやゲランが在籍したピヴェール審問会のメンバーであるパリで最年長の熟練香水職人達から称賛を受けまし

ビクトール・クロッツ, は、エドワード・ピノーやエミール・メイエルと同様、中国に惹かれていました。アジアにインスピレーションを得た多くの瓶を見ると、彼が神秘さと美しさに満ちたものを見極める力を備えていたことが分かります。ピノー社の教訓や技術などがかかれた本には、中国皇帝の使者からの謝辞が中国語で書かれています。

1904年に東京で開催された博覧会において、あらゆる点で期待に応えたエドワード・ピノー社は、その後「日本皇室御用達商」に任命されました

1908年、アンリ・クロッツとジョルジュ・クロッツが父親の跡を継ぎました。グローバル化の真のパイオニア達と同様、2人はエドワード・ピノーのブランド名を5大陸に知らしめる効率的な代理店ネットワークを10年足らずで確立しました。その後、彼らは1920年に商業の中心地に進出し、ニューヨーク5番街に店舗を持ち、シャンゼリゼ通り120番地に本社を、フォーブルサントノレ168番地にショールームを設立しました。

ところが、不幸にも1929年の大暴落後に破産に見舞われてしまいました。一家の莫大な財産を管理していた者が株式市場に投資したためです。クロッツ家の財産はすべて巨大な金融大変動に飲み込まれてしまったのです。

1930

そこで1人の天才が事業を引き継ぎました。それはロジェール・ゴルデでした。彼は才能あふれる極めて有能な人物でした。ゴルデは新たな視点を導入し、1936年に新店舗をフォーブルサントノレ83番地にオープンしました。… ゴルデはピノーが再びファッション雑誌に登場するよう、新作作りや宣伝活動を再開し、1930年から1979年の間に数多くの香水や化粧品を発売しました。

1937年、彼は、現在も世界中の女性に使用されている有名なマスカラNo.612, を作り、世界の化粧品を大きく変えました。同年、有名な香水Scarlett を発売しました。

1940

戦時中、製造が中断されることはなく、1943年には伝説の香水Opéraを発表しました。ロジェール・ゴルデは多くの新しいアイデアを生み出しました。ピノー社は、香水のラインナップを維持しながら、ボディーローションや美容クリーム、化粧品シリーズなど、上質な香水を用いたさまざまな製品の製造に乗り出しました。また、顧客向け製品の売上げを伸ばすため、デパート内にデモンストレーターも配置しました。

1950

ロジェール・ゴルデは、再び新しいアイデアを採用しました。香水を使った子供用ケアシリーズLes Chérubinsをいち早く発売したのです。ピノー社は周囲から先駆者として認識されました。

エドワード・ピノーやビクトール・クロッツと同様に、ロジェール・ゴルデはフランス香水支持者達の関心を集めました。ゴルデは自社の美しいボトル数点を展示しているグラースの国際香水博物館の後援者でした。

1980 – 2000

1979年、ゴルデの息子であるオリヴィエール・ゴルデが父親の仕事を継ぎ、2000年まで経営しました。彼とともにブランドは現代の世界に適応し、製品には現代デザインが取り入れられました。

絶対的な完璧さを人生の中で追い求めた創始者に敬意を表しながら、ピノー社の歴史は続いています。

歴史的資料のDNAを通してもたらされた製品は、パリのモンテーニュ通りにある博物館に大切に保管されています。

香水、家庭用フレグランス、化粧品、ジュエリー、最近の腕時計コレクションは、すべてブランドの過去やクリエーター・継承者達のクリエイティブな才能を一瞬にして見せてくれるものです。

1830年から続くピノー家が示す美の哲学と本物の生き方のすべてを込め、当時と同じ水準を維持しています。